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主体性

080312.jpg教育の仕事に携わっていると、あちらこちらで「主体性」という言葉にお目にかかる。「主体性のある人間を育てる」こと、それは現代の教育における至上命題の一つになっているのかもしれない。だが、かく言う大人たちのうち、真に主体性を持って生きている人間が、果たしてどのくらいいるのだろうか。多くの人たちは、周囲から与えられる要求・課題をこなし、慌しい日々を何とかしのぎながら生きているように思う。

無論、それは私とて例外ではない。会社を経営し、独自に企画を立て、新たなクライアントや人脈を開拓してはいるが、日常の大半は、与えられた要求・課題をこなすことに忙殺されている。その要求・課題を私に投げてくる人も、「主体的」にそれをしているわけではない。他の誰かが投げた要求・課題を「しのぐ」ために、私に投げてくるのだ。要は、ビリヤードの玉のように、要求・課題が弾かれ続け、結果として皆が忙しい毎日を送っている。世の中とは、永遠に玉が行き交うビリヤード台のようなものなのかもしれない。

そんなビリヤード台において、「主体性」をもった存在とは何か。それは唯一「最初に玉を弾いた人」なんだろう。しかし、勢いよく玉を打つことのできる、「主体性」のある人間は、ごく一握りに過ぎない。偏見かもしれないが、男性は仕事において、女性は恋愛において、特にその傾向は顕著なように思う。

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