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ここ数年、給食費の未納問題が大きくクローズアップされるようになってきた。埼玉県の八潮市では、支払い能力があるにもかかわらず支払おうとしない7世帯の保護者に対し、給食費の支払い督促を越谷簡易裁判所に申し立てたという。これまでは学校側も穏便に対応していたが、今後は同様に法的措置を取る所が増えていくに違いない。
給食を支払わない家庭があっても、学校はその子だけ給食を出さないということはしない。それは教育的配慮からして仕方がないことだろう。しかし結果として、支払わない家庭の子の給食分を、他の家庭が支えているという構図になる。例えば、飲み屋で10人で飲み食いしたとして、3人が「私は払わない」と言い、他の7人が折半しているような状況に、今の学校給食はあるのだ。
未納の多い一部の学校では、給食費が十分に集まらず、給食を出す日数を減らしたり、おかずの量を減らしたりしているという。育ち盛りの子どものことを考えても、何とも酷い話だと思う。この問題に関しては、学校は顧問弁護士を付けてでも、毅然と対応していく必要があろう。
今日は毎月恒例の「ぷらすわん」へ。本塾も数えて15回目。いやはや、回を重ねたもんだと、感慨深い気持ちになってくる。・・・なんて書くと「オマエは主催者か!」との声が飛んできそうだが、そのくらいこの会には愛着がある。全国に数多く教師塾があれど、これだけ熱心にやっているところは恐らくそうはないだろう。これも、講師陣のタレント力と事務局の方々の地道なサポートの賜物に他ならない。
今回、講師のお一人である金山先生が話をされたのは「教育委員会制度」。そういえば、まだ「学校経営」(第一法規刊の月刊誌)が健在だったとき、このテーマにスポットを当て、ちょっとしたルポを執筆したことがあった。ちょうど、金山先生のいらした志木市が、市長主導で「教育委員会の廃止」を打ち上げ、全国的にこの仕組みの不要論が渦巻いている頃だった。志木市の他に、杉並や中野などの教育委員会や文部科学省も取材し、このシステムの問題点や矛盾とともに、無くすことのリスクなども肌身で感じたものだった。
あれから約5年、教育委員会の「要・不要論」は沈静化したが、多くの教育委員会が旧態依然としている状況に変わりはない。一部、犬山市など活発に取り組んでいる所もあるが、名誉職として委員の枠を割り当てている自治体も少なくない。何らかの形で、今一度この制度のあり方を問う風を吹かせられないものであろうか。
※写真はうちで制作しているDVD。こちらも結構な量になったものです。
今日は「CUE」の取材で、ライターの長尾さんとともに埼玉県新座市にある十文字学園へ。人間生活学部の流田先生に、家庭科における安全について話を聞かせていただいた。
約1時間半ほどの取材の中でちょっと興味深かったのが、今の子どもたちは原体験が不足していて、火の怖さ等に対する認識が足りていないという話だ。すなわち、赤い火が熱いことは分かっていても、青や透明の炎が熱いということが、分からない子が少なからずいるとのことであった。そんなバカなと思いつつ、最近はたき火を見るのも希だし、ガスレンジもIHのクッキングヒーターに代わろうとしている。子どもが火を直で見る機会といえば、たばこを吸うお父さんのライターくらいかもしれない。
赤い火よりも青い火が高温であるというのは、ある種の科学的な理解であるが、これが欠如すると、後々大きな怪我を負ってしまいかねない。すなわち、科学的理解は安全教育にもつながる。「火は熱い」「ガラスは割れる」「刃物は切れる」。科学的理解というレベルではないかもしれないが、そんな基本的なことから、今時の子どもたちには教えていく必要があるのかもしれない。
グラフィックデザイナーの横尾忠則氏が、世田谷美術展で「冒険王・横尾忠則」と題した展示会を開催しているのだが、この展示会に美術鑑賞に行く予定だった小学校に待ったがかかった。原因は、「過激すぎる」というもの。一度、「観る」と言っておいて「やめる」と言い、理由が「過激だから」というのだから、考えれば失礼極まりない話である。担当者は、横尾氏がどんな作品を描くかすら知らなかったのであろうか。
いわゆる「教育的配慮」というのであろうが、この件については、少々「羹に懲りて膾を吹く」感がないでもない。関係者が懸念したのは性的な描写であろうが、芸術鑑賞をする上で、こうした心配をしていては見学できる領域は極めて狭くなってしまうような気がする。こうした「配慮」が、果たして本当に子どもの教育にとってプラスになるのだろうか。
結局のところ、問題を指摘されたときに、責任問題となるのを恐れるがための措置と言えなくもない。配慮しているのは、「子ども」ではなく、「自分自身」ということか。最近、そうした「すり替え」が至るところで使われているような気がしてならない。
今日は、取材でお世話になっている中野区立沼袋小学校にお邪魔し、「離任式」の様子を撮影させていただいた。私が子どもの頃、離任式といえば4月の始業式前後にやっていたような記憶があるのだが、少なくとも昨今の東京では4月下旬に行うのがスタンダードらしい。子どもたちにとっては、約1ヵ月ぶりの再会となるわけだが、その分、別れの寂しさも大して沸いてこないのでは…などと思いながら、式の様子を見ていた。
だが、そんな私の憶測は、まったくもって的外れだった。児童が先生への「別れの言葉」を読み上げはじめると、しばらくしてその子は声を詰まらせて泣き始めた。他の児童たちも、何人かは下を向きながら肩を揺らしている。6年生の児童の中には、一目をはばからずに号泣している子もいる。今どきの子は、もっとサバサバしているものだと思っていた私は、少々冷や水を浴びせられたような気持ちになり、不覚にももらい泣きをしてしまった。
私は小学校時代、離任式で泣いた記憶がまったくもってない。そればかりか、泣いていた友人も思い出せない。時代的な心の育ち方の違いなのか、あるいは先生に恵まれていなかっただけなのか…。沼袋小は、「実践型コミュニティースクール」として全国的にもよく知られ、子どもと先生との係わりも深く、その分、思い出もたくさん詰まっているのかもしれない。
OECDが各国の15歳の子どもを対象に実施している「PISA」の調査結果が公表となった。前回(2003年)、日本の子どもの読解力低下が明らかとなり、学力低下論争を呼ぶ一因ともなった調査だが、今回もまた波紋を呼びそうなデータが明らかになった。
特に問題視されているのが、科学的リテラシーの順位で、前回2位から4ランク下がって6位。数学的リテラシーが10位、読解力が15位なので、ついにベスト5に一つも入らないこととなった。原因は一体何なのか。ゆとり教育による授業時数削減も一因であろうが、それだけでは片付けられない複雑な要因も絡んでいるように思う。
試しに問題をやってみたのだが、率直な感想として、下がったのは科学的リテラシーではないのでは…との疑念が生じた。問題自体はさほど難しくない。だが、それ以上に問題の趣旨をきちんと読み解くことが、今時の子どもには難しいように思えた。きっと「読解力」は、あらゆる教科の基礎となるのだろう。
ちなみに上位はフィンランドや香港、韓国などで占められ、ヨーロッパの先進国であるイギリスやドイツ、フランスなどは、いずれの領域も日本より下位に甘んじている。学力が高いのは悪いことではない。だが、不必要に順位ばかりを追い求める必要は、もはやない段階に来ているのかもしれない。