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『ダヴィンチコード』の映画が公開され、世間ではちょっとしたブームになっているようだが、この作品に対するカソリックの論調は、実に辛辣なものが多い。それもそのはず、『ダヴィンチコード』はイエスを神格化されたイエス・キリストとは程遠い存在として扱っているのだ。すなわち、イエスをさまざまな奇跡を起こした“神の子”として捉えるカソリック教徒にとって、『ダヴィンチコード』は自分たちの拠って立つ信仰を根底から揺るがしかねない問題作なのである。
ふと、同じような視点でイエス・キリストを描いていた遠藤周作氏の小説を思い出した。彼の描くイエスは実に人間的で、奇跡を起こせたわけでもなく、英雄のごとく美しく死んだわけでもない、実に“惨めな男”であった。だが、そんな惨めな男のひたむきさ、人々の裏切りと嘲笑の中で死んでいっても誰も恨まずに何かを信じ続けたその姿こそが、人々の心にキリスト教を生んだというのが、遠藤周作氏の視点である。
私はキリスト教徒でない。ただ、10年ほど前に遠藤周作の作品を読み、彼の描くイエス・キリストの姿には深い感銘を受けた。写真の『死海のほとり』は、現代を生きる「私」と、傷つきながら誰も恨まずに死んでいったイエスを対比して描いた作品だが、今読み返してみると、いろいろと考えるところは多い。自分もそんな風にひたむきに生きてみたい…と思ったのは、いつの頃の話か。ここ数年は、まったく逆の道を歩んでいるように思えて歯がゆい。