“教育”が嫌いな私

 福祉、環境、労働……弊社が手がける分野は多岐に渡りますが、私個人が最も強い関心を持っているのは“教育”です。「今さらそんな話をしなくても分かっている」との声が聞こえてきそうですが、今回あえてこの話を書くのは、私が“教育”に熱意を傾けていることに対し、多少なりとも誤解している人がいるからです。
 “教育”と聞くと、皆さんは何を想像されるでしょうか。ある人は“学校”や“教師”を思い浮かべるかもしれませんし、ある人は家庭での“しつけ”をイメージするかも知れません。試しに辞書を引くと「・教え育てること、・一定の方法で未成熟者の心身両面を発達させようと導くこと」とありました。こうしてみると、“教育”という言葉が放つオーラは極めて権威主義的で、多くの人にとってネガティブなものかも知れません。「最近の若者はしつけがなってない。」「教育が悪いから社会が良くならない。」そんな単調な“教育論”に対しては、「もうウンザリ」と辟易する人も少なくないでしょう。
 実を言うと、私自身も“教育”という言葉が放つ独特の説教臭さに対し、ポジティブな印象を持っていません。否、“教育”という言葉自体が嫌いと言っても良いでしょう。その言葉の中には、一個の人間を恣意的な方向へ導くこうとする、導くことができるという傲慢さや自惚れがあるような気がしてならないのです。
 さらに言えば、私は“教育的”なことを言ったり、したりする人が好きではありません。「オマエのためを思って」なんて台詞は、恩着せがましい押し売りだと思いますし、体罰なんてものは、決して“しつけ”ではなく、未熟な感情コントロールが成せる業に過ぎないと思っています。
 そんな見え透いた “押し売り”や“言い逃れ”を見抜けないほど、人はマヌケではないし、そうした形で“教育”をしようとすれば、人間はねじれた方向へと育ってしまうに違いありません。大切なのは、「人にどうなって欲しいか」よりも「自分がどうしたいか」であって、そうした姿勢・行動こそが人に影響を与えるのです。よく「子どもは親の背中を見て育つ」と言われますが、まったくその通りだと思います。
 「そんなに“教育”が嫌いなのに、なぜその分野をメインに仕事を手がけるのか」と反論されそうですが、それは私自身の“教育”に対する視点が、根本的に異なるからです。
 私が持つ問題意識は、「人がその人らしく生きていくために、どんな社会システムを構築するか」に集約されます。すなわち、ある方向を志向する人間に対し、幅広い選択の自由を保障する仕組みを作ること、多くの人が自らの適性と興味関心を基に「こうやって生きたい」と思えるような社会を作ることが、私にとってのテーマなのです。例えて言えば、顧客のニーズを把握し、あるいは意図的に需要を生み出し、適切な品揃えと価格設定を行う“マーケティング”のようなものかも知れません。
 私自身、5教科を核とした学力をベースに、すべての人を一斉に競い合わせる日本のシステムに対し、否定的な見方をしています。そんな不毛な競争を強制する中で、多くの人が自らの適性や長所を見失い、「気がつけば何となくこの仕事についていた」という状態になっているような気がしてならないのです。そんな状況下で、仕事に情熱を傾けろというのが土台無理な話です。近年、フリーターが増加し、20~30代の離職・転職率が高まっているのも、極めて自然な現象と言えるでしょう。
 高度経済成長期、日本は欧米に「追いつけ」「追い越せ」をキャッチフレーズに、学力で人材を選別する極めて合理的なシステムを作り上げました。その仕組みが、奇跡的な経済の発展に貢献し、多くの人々に幸せをもたらしてきた事実は否定しません。でも、豊かさが当たり前になってしまった今、そのシステムが制度疲労を起こし、様々な歪となって現れ始めているのは明らかです。
 価値観が多様化し、多様なライフスタイルが芽生え始めている今、多くの人が“らしく”生きられる選択の仕組みをどう築くかのか――その視点こそが、私の“教育”に対する問題意識なのです。

〔2004.2.1 弊社代表・佐藤明彦〕